星落とす夜


 赤黒い夕日が、地平線へ静かに沈むころ。ロックアックス城を攻略したという知らせが、同盟軍本拠地にもたらされた。
 勝利を告げる伝令の声を聞きながら、ティルは半日を過ごした屋上から、フリックの部屋へと向かう。
 エレベータが忙しなく行き来している。一階の大広間には降りなかったが、軍主筆頭に幾人かテレポートで帰城しているのはわかった。同盟軍の本隊はこれから帰途を辿るのだろう。
 不思議と、城の一角は静まり返っていた。
 旧都市同盟に加入していた最後の都市。カミューとマイクロトフの離反で三分の一近い騎士たちが離反したが、なお精強さを誇るマチルダ騎士団。
 白騎士団長ゴルドーを倒し、マチルダ騎士団(かれら)を旗下に加えたというのに。
 騒ぐことを憚るような不気味な静けさは、戦場跡の日没に似ていた。

 部屋の扉を開けるころには、行き交う人々の話からある程度の情報が耳に入っていた。
 ナナミがリオウを庇い、瀕死の重傷を負ったという。いち早く運び込まれた彼女に対し、今必死の治療が続けられている。
 彼女は確かにそそっかしくてお転婆で、年頃の少年にとっては少しばかり口うるさい少女だったが、誰よりもリオウを大事にしていた。リオウにとっても、かけがえのない家族だ。
 どうしても軍主としての姿を求めがちな周囲と違って、一貫して弟を案じてくれる姉が、どれだけ支えになっていたか。グレミオを失ったティルだからこそ、想像に難くない。
 すでにフリックの部屋は宵闇に沈んでいる。最低限の明かりだけ灯して、ティルはベッドの端に腰を下ろした。
 主がしばらく留守にしていても、しっかり風を通されているのか、埃っぽさはない。その代わりに馴染んだ匂いもどこか遠く、ティルは小さく息を吐いた。
 リオウに請われて個人的に力を貸しているとはいえ、ティルは戦争そのものには参加しない。見知った顔が戦いに出るのを見送って、朗報を待つ。その繰り返しだ。
 そしてフリックと恋仲になってからは、一足先に彼の部屋で帰還を待つようになった。
 傭兵とはいえ、あれで弓兵隊の隊長だ。同盟軍では最古参の幹部格でもある。戦自体は終わっても、その後始末や報告で忙しい。落ちついて出迎えるなら、彼の自室が一番だった。
 戦帰りのフリックが部屋の扉を開けて、ティルを認めた瞬間、ほっと嬉しそうな顔をするのにほだされた────という面もある。
 彼も、城に帰ってきていることは知っていた。今は医務室の前に詰めているだろう。
 ナナミは、助かるだろうか。
 知らず、手袋に覆われた右手の甲を撫でていた。
「……彼女を狙うことは……おそらく、ない」
 都市同盟ではトランの英雄≠ニ親殺し≠フ噂が入り乱れる自分を、「ティルさん」と慕ってくれる可愛い姉弟だ。特にリオウには、真の紋章がらみもあって肩入れしている自覚はある。
 だからこそ、ティルにとって、あくまでナナミはリオウの姉≠セった。意識して一線を引いていたつもりでいる。
 フリックを筆頭に、ビクトールやカスミ、ルックやシーナといった、かつて解放軍に参加していた仲間の方がよほど危ないはずだ。
 今も虎視眈々とソウルイーターが狙っているだろう相手を思って、ティルはため息をついた。
 それと同時に、部屋の扉が開く。
「……いてくれたのか」
 常ならば気づけたはずの気配もわからなかったとは、よほど物思いにふけっていたらしい。
 今まさに思い浮かべていた青年が、疲れた顔で立っていた。
「お帰り。……ナナミちゃんは?」
 小さく、フリックは首を横に振った。
「そう……」と、ティルはまた右手を撫でた。
 魂を食らっただろう感覚も、予感もない。
 だがソウルイーターが食らわなかったからと言って、親しい人間が死なないわけでもない。マッシュのように。
「おまえのせいじゃない」
「うん。……わかってるよ」
 フリックが荒い手つきでバンダナを取り、マントや胸当てといった装備を外す。
 自分の命を預けるものだ。決して投げ捨てるような真似はしないが、その動作が彼の抱くやるせなさを語っていた。そして、刷いていた剣──オデッサ──を丁寧に壁に立てかける。
 ズボンと上衣だけになってから、大股でこちらへ歩み寄ってきた。
 隣に、座るのだろうか。
 ティルが見上げた先、色の薄い前髪がかかる青に、暗い影が落ちている。
「悪いな」
 そう言って、フリックは何気ない仕草でティルの肩を押した。
 びっくりしている間に、視界がぐるりと上を向く。石造りの天井が目に入ったかと思えば、のしかかるように遮る人影があった。
 大きな戦いのあと、彼の輪郭は少しだけ鋭くなる。ふと伸ばした右手は、阻むように掴まれた。
 実年齢は十八歳でも、ティルの体はソウルイーターを受け継いだ十四歳のまま止まっている。大人の大きな手のひらは、一回り違う手首を掴んでなお余裕があった。もう片方の手もまとめて、頭の上のシーツに押しつけられる。
 蝋燭の明かりを背に、膝と片手を突いたフリックが覗き込んできた。
 ふわりと香る、馴染んだ匂い。それに混じる、土と汗と埃と、血と死のにおい。兵士たちが蹴り上げて風に舞っただろう土埃が、ぱらぱらと短い髪から降ってくる。
 じっと見つめてくる青い双眸を、静かな気持ちでティルは見上げた。瞬きを、二度。
「……抵抗しないのか」
 どこか苦しげな声が滴り落ちる。
 それはこの、組み敷かれている≠ニでもいうべき体勢のことだろうかと、ティルは思った。
「うーん……君以外ならともかく、フリックだからね」
「戦帰りの男なんて凶暴なもんだ。それを、おまえに身勝手にぶつけようとしてるかもしれないんだぞ」
「さすがに丁寧には扱ってほしいけど、フリックがそうしたいなら拒む理由はないよ。むしろ、他の人で発散される方が困るかな」
 今まで外見年齢に合わせてか、子ども扱いに似た触れ合いしかしてこなかった相手だ。
 だがティルの中身は立派な十八歳であり、軍にいたのだから下世話な話だとてそれなりに耳にしていた。興味津々というほどではないが、大人の恋人に求められたら頷くくらいの覚悟は持ち合わせている。
 そもそも、とティルは小首をかしげてみせた。
「どっちかというと、君が僕に手を出すつもりがあったってことに驚いてる」
「……あるに決まってるだろ。俺だって普通の男だぞ」
「その割にはキスしかしてこなかったじゃないか」
 十も年上の男に告白されて、付き合うことに頷いたのだ。いずれ体の関係に至ることくらいは承知している。
 その日のうちに手を出されたら怒っただろうが、関係を深めた上で体を重ねるのは構わない。フリックを組み敷けるとも思えないし、なんとなく、自分が抱かれるのだろうとは考えていた。
「てっきり、そういう意味では僕に興味がないか、男を抱くつもりはないんだろうと思ってたよ」
 別に、体の関係がないならないで構わない。ティルの体は未成熟なせいか、それとも真の紋章のせいか。この年頃にありがちな性に関する欲求がほとんどなかった。
 深くキスをされれば、体の奥に灯る熱はある。それも、埋み火を煽る相手がいなければ消える程度のものだ。
 フリックが心だけの繋がりを求めるのであれば、ティルはそれでもよかったのだ。
「いや、おまえなあ……」
 頭上の青年は小さく項垂れた。
 よほど意表を突かれたのか。気がつけば、フリックが纏っていた重苦しい空気は霧散していた。手首を拘束する力が緩む。
 吐息を落として、フリックは口を開いた。
「……一応、誤解を解いておくとだな。俺はおまえを抱きたいと思ってるよ。……ただ、戦争中だから、どうしたって気が高ぶることが多い。はけ口にしたいわけじゃないし、勢いのままおまえに手を出したくなかった」
「うん」
「あと、やっぱ体格差があるからな。準備に時間を掛けないと壊しちまう。……男は特に、一日やそこらでどうにかなるもんじゃないらしい。そんな時間も余裕もなかったし……まあ、その、なんだ。途中でやめる自信もなかったしな」
 話が生々しくなってきて、頬に熱が上るのがわかった。
 つまるところ、フリックはだいぶ我慢をしてくれていたらしい。誠実で、優しい彼らしいと思った。
 我慢しなくてもいいのに、というのはティルの我が儘だ。彼は精一杯、自分を大事にしてくれているのだから。
 表情が緩んでいたのだろう。フリックが気恥ずかしげに視線を逸らした。
「それと、この手の話は隠しても男連中にはすぐ回るんだよ。特に、俺もおまえも名が知られてるから……知り合いにそういうのがバレるとか、気まずいだろうが」
「それは、まあ……ね」
 ビクトールにはバレないはずがないので、仕方ないとして。
 ルックは我関せずか、「知りたくもないよ」と切って捨てられるだろうが、シーナあたりはニヤニヤとからかってくるだろう。ヒックスには変に気を遣わせてしまいそうだ。そして忍の性質上耳ざといカスミに知られるのは、ひたすら申し訳なさすぎる。
「ありがとう、いろいろ考えてくれてたんだ」
 笑みが浮かぶ。
 見上げたフリックが、ふと気配を重く尖らせた。青の奥に覗く、紛れもない熱情。
「だから、この戦いが終わったら、おまえを抱くからな」
「いいよ」
 いずれ彼が旅立つことはわかっている。それまでの時間を過ごせるなら、ティルとしても願ったりだった。
 新同盟軍においての功績は誰もが認めているのだから、望めば地位も得られるだろうに。
 気楽な傭兵として、ひとりの戦士として、戦いと旅の空にあるのが彼の生き方なのだろう。 
 ────フリックを見送ったあとで、その先自分がどうするのかは、まだ決めていない。
 一応、一度はクレオが待つグレッグミンスターに帰るつもりではいた。
 グレミオもパーンもテオも、泊まりに来ていたテッドもいなくなった屋敷に、一人残していることは申し訳なく思っている。
 けれどクレオまでも、この紋章に食わせたくはなかったから。
 チィルはいずれ、ひとりで宛のない旅に出る。
「おい」
 ふと気づけば、険を増した視線に見下ろされていた。顎に手が掛かって、真正面から見据えられる。
「変なこと考えてるだろ」
「変というか……君たちが旅立ったら、僕はどうしようかと思って」
「……前にも、一緒に旅をしないかって誘ったはずだよな。俺と……まあビクトールもいるが、俺たちと行くって選択肢はないのか?」
 待っててはくれないんだろ、とフリックが呟く。
 故郷に留まるつもりもないくせに、自分のところには帰ってくるつもりなのか。
 不思議と、顔がほころんでいた。
「できないよ」
 この人が好きだと思った。好きだから、失いたくない。────置いていかれたくない。
 それを理由に別れを告げられても構わなかった。思うだけなら自由のはずだ。
 喪うよりも、よほどいい。
「ソウルイーターのせいか?」
 青い瞳が冷えていく。それもあるかな、とティルは頷いた。
「……そんな顔をしないでよ」
 憤りと苦しみが入り交じったような表情を浮かべる青年に、微笑みかける。
「君をこれ(・・)に食わせたくないのも本当だけど……もう、大事な人を看取るのはたくさんなんだ」
 水路に投げ込んだオデッサ。死体も残らなかったグレミオ。夕食の時間を過ぎても帰ってこなかったパーン。この手で致命傷を与えた父。腕の中で息を引き取ったテッド。勝ち鬨が上がるなか、無言で横たわっていたマッシュ。
 そこにいずれ、クレオもフリックも、ビクトールたちも加わるのだ。
 例えばこの先数十年をフリックと連れ添ったとして。彼が戦いの中で殺されるのか、老いて寿命を迎えるのかはわからない。
 だけどどうしたって彼は、人間の営みの中で死んでいく。大事な人はみな、ティルを置いていく。
 その現実を目の前で受け止め続ける覚悟は、とてもじゃないけれど持てなかった。自分の戦いはもう、終わったのだから。
 逃げだと言われてもいい。いつかふと空を見上げて、ああもういないのかな、と思い出すくらいで丁度いい。
「────俺は」
 気を落ち着けるように、フリックは深く息を吐いた。
 そしてまた、青に射貫かれる。
「俺は、おまえをひとりにはしない。誓う」
 口元が勝手に笑みを象っていた。どうやって?
 ぐっと、端正な顔が近づいてくる。
 目に映るのはフリックだけだ。世界が彼だけになってしまったかのようだった。

 低い、声が。

「俺が死ぬとき、おまえを殺す。絶対に、一緒に連れて行く」

 ────宣告を。

 は、と唇が震えた。反射的に右手に触れようとして、両腕とも抑え込まれていたことを思い出した。
 少し低い体温が、手袋越しにしみこんでくる。
「……僕は」
 だめだ、と思った。テッドと約束したのだ。焦りで思考が白くなる。
「死ねない」
 譫言のように、言葉が滑り落ちた。眼差しが「何故」と問うてくる。
「ソウルイーターを……守らなきゃ」
「ああ」
「テッドは、三百年守り続けてたんだ……」
「そうだな。確かに、凄いことだ。……だから、おまえも三百年生きなきゃいけないのか? 紋章を守るためだけに?」
 フリックは引いてくれなかった。このやりとりを想定していたかのように、滑らかに告げる。
「なあ、ティル。あいつの分も生きる≠チて、そういうことなのかよ」
 そうだ。テッドは、「俺の分も生きろよ」と言った。「元気でな」と祈ってくれた。
 喪うことを恐れて、別れから逃げて。親しい人も作らず、ただ死なないために、死なせないために彷徨い続ける。
 それがテッドの願ってくれた人生だというのか。
 違う。
 そもそも彼が紋章を託すことを決断したのも、逃げ切れないと悟っていたからだ。あれほど切羽詰まった状況でさえなければ、ティルを不幸にするかもしれない選択を、テッドは絶対によしとしなかっただろう。
 だから────だけど。
 今、自分は都合よく、テッドの意思を作り上げようとしているのではないか。この紋章から解き放たれるために、記憶の中の彼を歪ませようとしているのではないか。
 いいや。そう穿った見方をすること自体、テッドへの、そしてテッドからの友情を、信頼を疑うことではないのか。
 ぐらぐらと、目の前が揺れる。
「……俺はあいつじゃないから、知ったような口はきけない。だから、これは俺の気持ちでしかない。我が儘だ、自覚してる。……それでも」
 ティル、と名前を呼ばれる。
 冴え冴えとした青は、しかし恐ろしいほどに燃えさかっている。
 怖い。
 なにに対してかはわからないまま、ティルは身を引こうとした。
 逃れる動きは即座に察知され、ぎちり、と手首に痛みが走る。もう片方の手で肩を押さえつけられた。
 ああ、だけど、だけど────。
 ティルは空気で溺れるように喘いだ。頷いてしまいたいのは本当なのだ!
 とどめを刺すように、鋭い言葉に刺し貫かれる。
「俺は、おまえがそんな生き方をするのを認めない。それくらいなら、俺の手で殺す。殺してやる」
 それは無慈悲で冷酷なようでいて、恐ろしいほどに優しい宣告だった。
 ふ、と。体中から力が抜けていく。
「……ソウルイーターは、どうするんだよ……」
 それだけは、譲れない一線だった。
 抵抗をやめたティルに、張り詰めた空気が和らぐ。
 静かな声が降ってきた。
「シュウに聞いたんだ。南の、群島の方に命を削る真の紋章があったらしい。宿主を食い尽くすと近くの人間に移る、そうやって国一つ滅ぼしたそうだ。最後の一人が、誰も来ない遺跡の奥深くで息絶えて……それから、紋章の犠牲は出なくなった」
「その人は、紋章を……」
「ああ。……封じたんだろうな」
 ティルはこれでも、赤月帝国の名門マクドール家の生まれだ。
 限られた人間しか入れない城の図書室で、表に出ない歴史書を読んだこともある。今はもう遠い記憶の中に、似たような記述があったことを思い出した。
 のろのろと視線を合わせる。
 険しい顔をしているだろうと思っていたフリックは、やわらかな笑みを浮かべていた。
「ハンフリーに頼んで、ヨシュアに話をつけてある。竜でしか行けないような場所に、一度だけ送ってくれってな。それこそ……シークの谷の最奥でもいい」
 先ほどまでの会話とすぐには繋がらなくて、ティルは一瞬ぽかんとした。
「ジーンとラウラにも協力してもらったんだぜ? 瞬きの紋章を応用した札で、竜洞の前にテレポートできる。こっちも一回だけだ」
「……フリック、まさか」
 点と点が線で結ばれていく。
 鮮やかに、フリックは笑ってみせた。
「ソウルイーターを手放せなんて言わない。紋章を抱えたままでいい。だから、いつか……誰も来ない場所で……俺と一緒に死んでくれ」
 ひゅっと、喉が鳴った。
 温もりだけの口づけが落ちてきて、呼吸を忘れていたのだと知る。
 じわじわと言葉の意味が頭に染み渡り、視界が滲んだ。あふれ出した熱が、頬を伝って耳まで濡らしていく。
 先ほどまでティルを拘束していたはずの指が、優しく目尻を拭ってくれた。
「ティル。……返事は?」
「……っ、オデッサさんに、怒られても知らないよ……っ」
 嗚咽混じりの声に、フリックは声を上げて笑った。
「ああ、そうだな。テッドにも一緒に怒られてやるさ」
 それ以上、言葉にならなかった。
 返事の代わりに、大きな背中にしがみ付く。フリックも抱き締め返してくれた。幸せな重みだと思った。
「俺が、おまえを連れて行くんだ。だから……」
 安心しろ、と囁かれて。
 今度こそ、ティルは声を上げて泣いた。
 静かな夜のことだった。

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幻水108題 072. 神を殺す



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